個展のこととか。

今回の個展では、糸を「編む」という行為と、漆の特徴の「強く長く保存する」というところをキーにし、私のつながりのある土地に根差している綿花の糸を編むことによって、その「もらったものの記憶」を編み込み、それを漆で包みこむことによって「長く大切にする」という表現をしました。

そして「もらったもの」を「私の山」として形にしました。

私が作ったので、「私の山」でもありますが、もらったものでできているので、「もらった人たちの山」=「あなたの山」でもあります。

 

そして、前に

 

私は私が作った作品だけれど、外に出した時点でもう私のものではなくて、見る人のものでもあると思っています。

なぜなら、見る人が全く私と同じ経験や価値観、記憶を持っていることはなくて、その人の中のもので、その作品を見て、感じるからです。

その感じたものは全部あなたのものです。

私の作品は、それによって導かれたあなたの中にあるものを呼び起こすスイッチになればいいと思っています。

 

と記述しましたが、今回の作品から具体的にどういうことかといいますと、

この作品をみて、「山だ」とか、山の中に入って「木漏れ日を感じる」、色を見て「紅葉かな?」や、「何か落ち着く」など、「何か」感じるものがあれば、それは鑑賞者の「記憶」や「経験」によって感じるもので、私の作品によって導かれた鑑賞者のものであり、「私の山」でもあるけれど、鑑賞者の記憶の「あなたの山」にもなりえる。ということを伝えたかったのです。

 

なぜ、このように思うかといいますと、現代美術家の菅 木志雄さんの《依存差》という作品を見て、感動したからです。

 

どのような作品だったかというと、

 

地面にぼんやりとした鏡面のアルミ板を広い範囲に敷き、上に大きな石を適当な間隔で並べ、その石の上や、鉄板の上に長い鉄の棒をはわし、目の流れを作っているような作品で、一見何かわからない作品ですが、石がアルミ板にぼんやり写り込んだり、アルミ板の青白い光や、石の配置から、「川の流れが見える」という経験をしました。

 

石の配置や色合いと異素材の組み合わせなど、美しいとは感じていましたが、その作品から自分の中の「情景」を見出しました。

 

この、「自分の中の情景を見出す」ということを引き出すということは、ほかの鑑賞者の「情景」がこのひとつの作品から何通りもの見出されるということで、作者がもっている「答えを見せる作品」ではなく、作者だけのものではない「広がる作品」だと思いました。そこに作者と鑑賞者のコミュニケーションも感じ、心が震えました。

 

実際のところ、菅さんがそのように制作されたかはわかりませんが、私はそのように感じました。

私は異素材のものとかを組み合わせて、形とか色のバランスをとる遊びが好きだったので、菅さんの作品は好きですが、この私の考え方だと鑑賞者に頼った作品にもなるので、なかなか理解を得にくい表現だとも思います。

 

けれど、私は美術を鑑賞するときに、「これはあれだ。これは何だ。」と「もの」として終わらせるのではなく、作品に自分を探したり、自分ではない新しい何かを見つけたりしてほしいと思います。